ヌーノ・別天地構想

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童貞という宗教

少し前に、僕は童貞ではなくなった。そこで今まで、童貞、非童貞ということについて、考えてきたことを記そうと思う。文章はうまくない。

 

まず、結論として僕が言いたいことを書くと、童貞というのは、ただの言葉であり、宗教であり、ただの想像上の虚構である。それが、この日本という社会に、ある種のヒエラルキーを生み、見えない線引きを与えている。そして、それに苦しんでいる人がいるならば、童貞というのはもう気にしなくていい。

 

童貞という言葉は、女性と性行為をしたことのない人を指す。何かを経験したことがないことを指す言葉は、多分珍しい。普通は何かをしたことがある側、またはする側を指す言葉が多いと思う。つまり、人はそれだけ性行為をしたことがない人を特別視しているし、性行為は特別な経験と考えている人が多いということだ。

 

この記事で言いたいのは、童貞というのはただの言葉であって、見えない線引きにすぎないということだ。そういうカテゴライズにすぎない。共同主観的な概念にすぎない。本来、貨幣と呼ばれるものがただの紙にすぎないことと同じだ。貨幣はそれ信用している人間がいるから、その信用を疑わない人たちがいるから成り立っている。そして、童貞という概念によって、この社会で部分的にヒエラルキーが生まれている。

 

このヒエラルキーの強い日本の社会では、学歴、年収、容姿、結婚、あらゆる面で他人と比較しあう。その価値を自分自身で疑うことなく盲信しているからこそ、厄介なのだ。自分の価値観の押しつけが一番怖いことであり、まずは自分の価値観を疑ったほうがいい。日本の社会とか教育の怖いところは、何が個々の本当の幸福か考えることをほとんどしないことだ。勉強をして、いい成績とって、いい大学入って、いい会社員になることに価値を置いていたら、同じことを繰り返すに決まっている。そして自分自身を正当化するために、学歴やら年収やらでマウントをとりあう現状がある。

 

この世の中には童貞であることを馬鹿にする人が一定数いる。現に僕は学生時代、何回も馬鹿にされてきた。そんなマウントをとろうとしてくる奴は友達と呼ばなくていい。人はそれぞれ個性があって違う存在であるし、住んでいる環境も異なるし、育った環境が異なる。すべての人間の人生に、すべての行動に不自然はない。それが存在するというだけで、すべて自然なのだ。

 

それなのに、性行為をしたことがないことに限って、マウントをとる。それは差別だ。 こんなに自由な世の中で、性行為をしたことないことを、怯えて生きなければならないのはおかしい。童貞か非童貞かに価値があると考えるのは宗教だ。自分は、そんなことで人間の価値が劣るとは考えていない。そして、自分以外のすべての他人が信じている秩序、信仰、宗教から生じる不条理は辛い。なぜなら、その他多罪の人間が信じていることを説得することは不可能に近いから。

 

この社会は恋をしているときが一番が幸福である、と思い込ませている。そういうcmやテレビドラマや小説が山のようにある。それは、恋をしているほうが、きれいな洋服を買ったり、美容室に通ったり、プレゼントを用意したりして、消費が増えて経済が活性化するからだ。恋をしている方が、してないときより幸福かなんて、実際にしてみなければ本人にはわからないことだ。

 

経験は大事だ。それは経験してみなければ、幸福かどうか、好きかどうかがわからないからだ。僕はこのような考え方を信じているが、これも一種の信仰であり、すべての人間がこれを信じる必要はない。

 

歴史において童貞であることが、望ましい時代もあった。つまり、時代によって常に価値観は変わりゆく。現代は目まぐるしく変化を続けている。現代の社会を定義することなど、カメレオンの色を定義するようなものだ。周りの押し付けてくる価値観と比較する必要なんてなんてない。非童貞であるからといって、上から物を言ってくるようなやつは、はっきりいって差別だし、人間のクズであるといっていい。童貞であることを卑下する必要はない。

 

とは言うものの、どうしてもコンプレックスに感じるというのであれば、結局のところ、解決方法は2つしかない。1つはもう今後一切、童貞であることを気にするのをやめるか、もう1つは童貞じゃなくなるように行動するかしかない。