ヌーノ・別天地構想

君が泣くまで考えるのをやめない。つもり

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わたしは光をにぎっている

わたしは光をにぎっている

 

澪(松本穂香)は就職先を探すまで、亡き父の古い友人の京介が営む銭湯屋さんに居候させてもらうことになる。そこで、新たな生活をはじめ、新たな友人にも恵まれていく。しかし、次第に街に再開発が始まり、大切な街の風景は少しずつ変わっていく。失われていく街並みに何を思うのか。

 

澪は役柄的にほとんど声を発しない。自分の意思をあまり露わにせずに黙っているタイプの子。始めたスーパーでのアルバイトも、高校生の子に小言を言われてすぐにやめてしまう。でも、何故かこの子の気持ちがわかる気がした。自分自身をみている気ような気がした。悪い意味で、暗くてボーっとしてるんだけど、松本穂果をみていると、ただ黙って、他の人のペースに惑わされることなく、自然体でいたい気持ちになる。映画の後半では、仕草などに自分の意思が現れ始める。

 

そして、渡辺大知、映画監督志望で、町ではいつもカメラを回してドキュメンタリーしている。松本穂果と真逆のタイプ。お人好しで、おせっかいそう。フィルムカメラを通して映した世界が綺麗で特別であることを、澪に教えてあげた。

 

山本暮鳥の詩、自分は光をにぎっている。

 

澪のおばあちゃんは亡くなるし、銭湯もつぶれる。失ってしまうものもあるけれども、失わずに持っていられるものもある。いつまでも言葉はその人の中に宿るし、撮影した風景はフィルムの中でその時を留められる。苦しいけれども、大切なものはいつまでも握っていられるものだ。

 

その光を握って、松本穂果はまた番台の上に立つ。今度は得意げな顔で。

 

 

小説 わたしは光をにぎっている

小説 わたしは光をにぎっている

  • 作者:梅原 英司,中川 龍太郎
  • 出版社/メーカー: マッグガーデン
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ドクター・スリープ

ドクタースリープ観ました。

観た映画を過去に遡って、感想を想を書いてるんですけどね。

 

シャイニングの続編。

シャイニングのとき三輪車を漕いでたあの息子が、中年のおじさんになってる~。あのときの息子ダニーは、幽霊の撃退法を身に付けていた。自分の中に特別な箱をイメージして、その箱に幽霊を閉じ込める。師から教わった方法だ。

 

シャイニングを持つ子供たちを誘拐し、そのシャイニングを食うことで長生きしている集団が現れた。その集団は、強力なシャイニングを持つアブラを標的に定める。アブラはダニーへと接触し、ダニーはその集団からアブラを守るために行動し始める。

 

シャイニングはホラー映画だったのに対して、今回のドクター・スリープは超能力バトル映画になっている。超能力者集団のリーダー、ローズは、瞑想で宇宙を駆け抜けて、アブラの頭の中へと侵入していく。しかし、アブラも罠を設置していて、頭の中を簡単には探らせまいとする。人の意識の中で、戦いが繰り広げられる。

 

それでいて、どこかスターウォーズ的な要素も含まれている。物語の途中、突然に師が現れて、ダニーにアブラを救うべきだと諭す。あの子の師になってやるべきだと。導いてやることで、ダニーも師と同じように師になり、その関係は繋がっていく。

 

最も強力なシャイニングを持つローズをコロラドのホテルへと誘い出す。シャイニングを強く欲するあのホテルでローズを葬る計画だ。ジャックに斧で襲われたバスルームを覗き込むと、そこには何もなかったが、凄まじい爆音であのときのシーンの回想へと入る。ここで来ると思わせておいても、それを超えて驚かせてくるのは素晴らしい。

 

ダニーはローズに対して、自分の中の特別な箱を開け放ち、ローズを道連れにする。そして、ダニーはホテルとともに燃え、幽霊を浄化した。

 

行動が人を変える。この映画では、何度もこの言葉が出てきた。ダニーはアルコールに溺れていた時期もあったが、それをいつしか克服した。そして、再びあの館に訪れ、過去のトラウマを払拭した。行動が人を変えるそれを体現してみせた。

 

 

ホラー的な要素はシャイニングに比べて少なくなっているが、シャイニングの設定やビジュアル、回想シーンなどを活かしつつ、新しい映画に仕上げている。敵のビジュアルやキャラなども魅力的である。

 

 

 

殺さない彼と死なない彼女

殺さない彼と、死なない彼女観ました。

 

すべての眠れぬ夜に捧ぐ。

 

全部捨てていくと思っていた。あいつを除いて。ゴミ箱に捨てられた蜂を埋めようとしていた。蜂の命は大切にしていたくせに、自分の命はおろそかにしていた。リスカして。この蜂は私なんだよ。誰からも、大切に扱われずに死んでいく。

 

3つのエピソードで展開するこの映画。小坂と鹿野、撫子と八千代、キャピ子と地味子。特に好きなのは、撫子と八千代のエピソード。

 

撫子は自分のことに興味のない八千代が好きだった。でも、本当は八千代に振り向いてほしかった。八千代も幾度となく好きと言われるうちに、いつしか八予は撫子のことを待っていた。あの人だったら、どんな反応をするのか想像するのか。それを考えている姿が幸せそうだった。それを観ているこちらも幸せだった。

 

それぞれの登場人物が、現実での振る舞いと、内面の声が乖離している。現実がこうだったらいいのに、こうなれば幸せなのになんて、思うことはたくさんあれど、意外と幸せは近くに存在している。キャピ子がどんなに好きな人に振り向いてもらえまいと、地味子はいつもそばにいて支えてくれる。そんな幸せも、急になくなってしまうことだってある。

 

だからこそ、自分の声を大切にして、生きなければならない。

 

台詞が独特で、疑問文に疑問文で返して会話してるのが、どこか面白かった。ソフトなフォーカスで、人物ばかりにピントがあっていて、ポカポカした空気な映画だった。

殺すとか死ねとか物騒な言葉ばかり言うけど、それはなんだかんだ愛のある関係だった。

 

恋愛映画の一つの新しい形を示している。